昭和49年08月13日 13日会



 夕べ十二時頃あの出て暗いから、ちょっとテレビをつ点けたら明るくなった。点けたら丁度、あのう代2次実録第二次世界大戦があっとりました。もうあの裁判を最後にあのう沖縄のもう、これは日本軍だけじゃない、米軍も随分亡くなったでしょうけども。特にあのう各其地で、もう日本の兵隊さん達が、もうゴロゴロと亡くなってある姿を、もうそれこそ火炎放射器で焼き殺された、皆なあゝ言うもうそれから、あの沖縄辺りではもう中学生が切り込み隊に入って。
 女の中学生は看護婦、従軍看護婦の御用をさして貰うて、そしてみんな亡くなって行くとが、もうどうしてあげな映画を撮っちゃったじゃろうか、ちゅうごとです。フイルムに収めてあるのを、しかもカラーで撮ってあるんです。それを見せて頂きよってから、あのう寝とったばってん起き直しました。そしてもう本当に亡くなって行く人達がもう、最後にお母さんとかお水とか言うたじゃろうとこう思うて、もう私は枕もとにいつも氷水を置いとりますから。
 氷水のその美味しさを思うて、あのうとうとう又もう一度紋付袴を着けてからご神前に出てきました。そして今あのう御霊様にお供えしてあります、何時も丼に氷水をあのう今晩から一月、私はあのうお水をあのうお供えさせて頂きたい、そしてあのうその時に亡くなられた方達に対する本当に一杯の水がもうどんなに素晴らしく、美味しいものかと言う事を、私が唯、私がそれがこんなに美味しいのだから、亡くなる時の末期の水の、味も解らんなりに亡くなって逝かれた。 
 これはもう米軍日本軍に係わらずあのそう言うもう、焼土地獄と言った様な地獄の様な苦しみを受けて亡くなった人達に、あのたった丼一杯のお水ではあるけれども私はあのう捧げて、あの御祈念をさせて頂く( ? )をさせて頂こうと思うんです。それが実感です。その映画を見てからのそうしたら、今朝からあのう久保山さんがご神前を拝まして貰いよったらもう、あらゆる様々な花が一杯、神様が喜びを見せて下さる。
 霊様の前に行ったら勿論それをもう、今迄見た事もない色々な花が、あのう霊さまの前に心眼に拝まれた、と言うから実はこうこうじゃったから、その神様が喜ばれると同時に霊様が喜びを表さして下さって居るのですよ、と言うて話した事でしたけれども、もう本当にです、今程私はあの、警鐘乱打と言う言葉があります、もう今程あの私共、本当の信心を頂く者が世界中にそのう呼び掛けなければならない。
 真実の人間の幸福世界の言うならば、合楽を現す、言うなら合楽示現、合楽示現とは示し現すと言う運動にお互い参画さして貰うて、その本当に手元の処からではあるけれども、その言うならば立ち上がらして貰うて、それが五が十になり十が二十になると言う様な勢いで波紋を広げて行く様に、そう言う人間の幸福を願わなければならない時は、もう又と無かろう様に思うのです。
 何故そう言う風に私が言うか、と言うと合楽が御かげを頂く様になって椛目、合楽を通して二十五年間言うならば合楽示現とか、お導きとか宣伝とか言う言葉を使った事がなかった、その二十五年間例えば大体宗教団体で、あのうお導きと何とか言わんと言うのはもう、私も不思議で堪らなかったんです、実を言うたらお導きをする事によって、他人も助かる、自分も助かるんだと言う風に教えられておったけれども、合楽の神様はそれを、あのう教えて下さらなかった。
 問題はここに例えば甘い物なら甘い物があれば、是に蟻が集まって来る様に集まって来るんだと、只有難いものを此処にあのう、貯えて行きさえすれば良いんだと言う様なでしたから、ははぁ是はもう、是で私の一生イヤ合楽の在る限り、是が合楽の御流儀だな、とさえ思ったんです。それでもやっぱこの程度に助かって来たんですから、処がどうですか、なら二十五年明けて今日と言うものは、もうそれこそ人の顔を見れ、合楽の御かげを受けて居る事実を示して、そして現して行こうと言う働き。
 そう言う一つのまあ、運動が展開、まあされつつあるわけです。是は例えば私が昨日戦争映画を見て、映画と言うよりは実録です、実録世界大戦を観て本当に、ああ言う様な悲惨な事を、もう二度と繰り返してはならないと言う事です。もう本当にあのう争いの無い世界を本当に創って現して行かなきゃあいけないです。本当に世界から病気又はネ貧乏と言った様な人間の、不自由な世界と言うものをです。
 私共は無くして行かなければならない。それがですなら何故二十五年後の今日に私がです。こう言い出したかと言う事は私だって、神様がそれをあのう進めて下さるか、と言うとです。合楽にも二十五年間の間にです、言うならば世界に広げて行けれる程しの言うならば、それを言うと自力から他力とか移って来たと言われる、その他力の言うなら今迄は人間のまあ、言うなら自転車を踏む様なものであったのがです、もう機関車なら機関車と言う、言うなら他力の力で神が道を開く。
 今迄は大坪総一郎が一生懸命、頑張って此処まで道を開いて来た。勿論その「従」としては他力がなからなければいけません。けれどもだから自力に対する主であるならば、他力は従であった、その立場が反対になって他力が中心になって、他力が芯になった。そして自力の方が「従」になったと言う感じです、ですからこれからはもう、神様が先頭に立って神が道を開くと言われるのですから。
 とてもとても私共の思い願いと言う様な小さいもので無くって、本当にこれをそれこそ警鐘乱打してです、今ならまあだ間に合う、もう例えば火事なら火事が、打ち上げてしもうてから、警鐘乱打したって、もう遅かです。ですからもう今にもです打ち上げようと言う様な、いわば寸前にある様な状態なんです、世界中がですから私共がその、まなこをそう言うほんとに、世界だそれを助けて行くと、言う位な大きな抱負を持ってです、この合楽示現活動、言うなら合楽示現運動に。
 合楽を示し現して行く運動が活動となってです。おかげを頂いて行かなければならない時期が、到来したんだと言う事です。私は今日十二時ちょっと前に着かして頂いたら、丁度あの、一緒に手紙が来ておりました、それがちっと、皆んな宮崎県ばかり、宮崎の延岡、宮崎市、それから大淀と言う様な、あの所から「おかげの泉」の御かげを受けた御礼なんです。これは七十五歳になる御婆さんがお礼の手紙を寄こしたんです、ちょっと読んで見ましょう。沢山色々書いて有りますけれど。
 字を書ききらんと言いながらも、もう当て字ばかりで、判読して仮名付けして読ませて頂いたんですけれども、「高徳な御先生の御光を延岡、宮崎まで輝かせて頂きまして、不徳な私達は「おかげの泉」の御本を繰返し、繰返し読まして頂きまして、信心の稽古をさせて頂いて居ります。信心が長いばかりで、自分中心の信心で、神様の御心も分らず、勝手信心で相済まない事ばかりで御座いますが「おかげの泉」の御本を読まして頂き、少しづつ信心成長の御かげを頂かねばと。
 毎日読み返し読み返し信心の稽古をさせて頂いております。今日では悩みも、不足も無く毎日が有難い一杯で御座いますと言う、これは御婆さんの「おかげの泉」でまだそれがもう一節一節にここん所で、こげな御かげを頂いて行っておる。息子達がこう言う風に変わって来たと言う事や、もうたどたどしく書いてある。それからやっぱし一緒に、これは今ここで修行しよります、田中さんのお母さんが出しております手紙なんです。そこの一節を、教会のおごそかなこと。
 又明るく光輝き、和気あいあいの雰囲気と合楽に一晩泊まらして頂いて、合楽の事実をこげな風に実感しておる訳です。私はこの本当に矢張り素晴らしいと思う事はです、もうあのう朝の四時の御祈念の時に、このもうははぁこう言う時に病気なんか治るとだろうと、言った様な感動をおぼえたと言うんです。いわゆるそのう厳粛と言うか厳かな事、そしてそれがひとたび、今度は電気が点いて明かるうなって昼になり、夜になって行くに従って、その始めて来たのに。
 周囲の方達の親切又信者さん達の雰囲気と言うものから感じられるものはです。只、和気あいあいの雰囲気光に輝く、光輝く和気合い合いの、只、和気合い合いだけではなくて、もう隅から隅まで光り輝いて居ると言う風に表現して居ます。私はこれは私はそのこれは嘘じゃないと思うです、今の合楽はこう言うものを確かに、あのう湛えておる、備えておると思うんです。だからこそですこう言う様な雰囲気をです、言うならば合楽を現わして行くと言う事は、こう言うものが無からなければ現していけんのです。
 中はもうしだごだ家族の人達はもう、こうこうぶつぶつして御座る、と言った様な事ではです修行生の人はこう、信者さん達はこう、と言うもんじゃなくて、それがたった一日、丸二十四時間、合楽に過ごさせて頂いて、合楽の雰囲気から頂いたおかげが、只今短い言葉そこん所を取ると、今厳かな事、そして明るく光りに輝いておる事、しかも和気合い合いであると言う事と、言う事なのです。
私は今日はどうして、こんなに、あのう十三日会が少ないかと思ったら、ああ貴方もう今日はお盆で、お盆の準備でと聞いてから、本当に残念と思うんです、それはどう言う事かと言うと、合楽はこれ程しの御かげを現して居るにもかかわらずに、言うならば合楽に改式をして居る人が、そんなに少ないと言う事です。まあだ御かげは頂きよる、合楽言うならば示現運動、活動にも参加もしておるばってん、自分自身の所もまあだ、改式もしてないと言う事なんです。
 だからお盆前の忙しい、この会合に参られないのですから、これはもう本当にもっと、もっと合楽全体が本当に金光教で、生きても死んでも助かられる、一つの基盤と言った様なものを、先ず作らなければいけない、と言う事を私は今日の、少ない訳がお盆のためだと聞いて、改めてそれを思うです。どうでしょうか今あの手紙を聴いて下さって、成る程合楽にはそう言う厳かなとか明るいとか、光に輝くとか。又和気合い合いのものが有ると言う事、そしてこの世あの世を通して助かって行かなければならない道を。
 合楽に求めておると言う事これが、私は合楽に示現の、あの根本になるものだと、なのだと思うんです。私は自分ながら心に懸かりながら、あの合楽の宣伝をすると言う言葉が何とはなしに、宣伝ちゃなんか普通の宣伝のごたる感じのする訳です、何かこう本当は良いものではないと、良いものと言える様に、言う様に今の宣伝と言うのは、私はそんなもんじゃ無いかて思うです。効きもせん薬りを効くと言う様なです、それが宣伝の様にあるが。今それが私は、昨日一昨日でした。
 あのうその事を頂きよりましたら、合楽示現活動と言う事を頂いたのです。だからこれからは合楽宣伝等と言う様な言葉では無くて、合楽示現示し現す運動、そう言う運動に、私だから今度大きく垂れ幕を作って、合楽示現運動にいわゆる、参画しましょうと、言った様な垂れ幕を作って貰おうと思うんです。そして合楽を挙げての合楽示現活動にその、挺身させて貰らわなければならない、今こそ警鐘乱打しなければならない、言うならば時はないと言うこと、これを私共は様々な角度から。
 あのう一つ実感しなければいけません。例えばこれから二十五年後に地球の破滅とか、又は今の科学者が言うとります様に、例えば科学的に現在の地球上の全てを分析すると、第一人口問題、それから食糧問題、それから公害問題、もう今まで言ったら、これだけでも二十五年経たないまでも地球は破滅するだろうと言って居るんです。教祖様も道が、世の中が開ける、開けると言うけれども開けるのでは無い。めげるのじゃと仰っている、そのめげるもう、ぎりぎりの時点まで来ていると言う事なのです。
 めげるめげて仕舞ったんではもう遅い、私は今日あの警鐘乱打と言う事を頂いてです、御理解に打上げち仕舞うちから、警鐘乱打したんじゃもう、遅か火事なら火事がです、もう燃え上がって仕舞うちから、幾ら警鐘乱打したっちゃあ、だからまあだ燻っておる時に、まだそれぞれ今なら消せると言う時にです、警鐘乱打が必要なんだその警鐘乱打を私は合楽は、その為に二十五年間も修行させて下さったんだと、その為に二十五年間も、言うなら蓄えに蓄えて下さった。  
 例えば光と言う様なものが、力と言う様なものを蓄えさせて下さったんだと、神様が道を開くと言う言うならば、先頭に立って世界総助けの働きにです、神様がやっきになって居られると言う事をです。合楽の現状から、私はそれを感じるです。このお祖母さんが言うとる様に、言うならば十何才の時から六十何年間信心したけれども、何時までも何処までも、何処までも自分中心の信心から一歩も出て無かったけれども。「おかげの泉」を読ませて頂く様にならせて頂いたら。
 これは教会を中心に、先生を中心にせねばいけない、と言う事を解らせて頂いて、教会にお参りさせて頂いたら、延岡教会長が御本部に、しゃっちお参りせんならん要件が出けたばってん、旅費が無いと言うて悔やまれた。だからそれは、ほんなら私が御かげを頂きましょうと言うて、その旅費を御かげ、頂かせて貰うたら、金光様にお届けをされたげな、金光様が教会長とそのう、この方の二体の御神米を下げられたと言う、大変感動を、この様に書いて有ります。
 今迄はたった自分が御かげを頂きたい、その中心であった信心がです。言うならば、金光様から、それが喜んで頂けた、お褒めの言葉を頂いた様に思うと書いて有るです。いかにです、私共が、自分と言う者を中心にと言う事から。その自分の周辺に、言うなら人が助かると言う事に私は焦点を置き。大きくは世界総助けの大きな運動に、先日先月の出尾教会の東京の出社のからあれは何と言うか“あかし”かあれにあのいわゆる親先生の御話しとしてから、私と同じ様な事を言うておられる。
 もう兎に角もうどんこんどんこんされん、されんごたる気持ちらしいです。そして自分はもう今頃、行っとられるでしょう、けれども世界中を駆け回って、世界総助けの事を説いて回らん、ならんと言うて、言うておられます、だから、本とにです、私は例えばほんなら世界総助けと言うて旅行して廻っては生き方が違いますけれども、私は先ず手元足元ん処から、先ずは自分自身が極楽にある、御かげを実感する。
 そして合楽を現すと言う事、その幅を広げて行こうと言う、出尾の先生はそれを外側から、もうじいっとしては、それを言っとられるのに、あのうもうグズグズしておる時間はないと言うて居られる。出尾の三宅先生は、私もだからそう言う様なあのう、思いはしますが、例えば私共が今生きて居る事は、今生きて居る事は又、教祖様が、又はお釈迦様とかキリスト辺りが予言をして居られたと言う事はです、もうあの今の時期に当たる様な感じがするんです。
 例えば天国は近づけり、汝ら悔い改めよと、例えばお釈迦様は弥勒の世界が再現するとか、又はキリストは最後の審判、だから最後の審判と言う事はです、悪は滅びるけれども善は生き残ると言う意味なんです、だからこそ、あのう天国は近づけるとか、汝悔い改めよと悔い改めて居る者だけが、言わば天国は近づけるであり、言うなら弥勒の世界に住む事が出来るんだ、と言う事。私が、私があの予言しておる事は、二十五年後のあの大予言と言う事に対してです。
 人間が自分で自分の首を括って行く様な生き方をするから、地球人類が破滅すると言う様な結果になるんだと、そんならば自分で自分の首をくくるのでは無くて、いよいよ広がりに広がって行く様な道を私共はたどらせて頂く者だけは生き残ると、言わば私予言している訳なんです。ですからそう言う様なものが、なら現在の地球上に起きて来る、様々な不思議な問題、又は実際、その科学の力で、お互いが文明をおうかしたけれども、その文明をおうかしたの事がです。
 今度は自分達をいよいよやっつけ様と、しておると言う時なんです。ですから本とにあのう、信心のある者がです、そういう大きなあのう神の大願をです、私共の願いとさせて頂いての、御かげを頂かなければ、今度十六日の御大祭に、もちろん祈願祭、今度は私はどんなに考えても久留米関係は全部、何て言うですか、六月十日の本部で行われてる記念式ですか、立教記念式のお祭りをして、そのついでに祈願祭をすると言う祝詞になってたんです。親先生が家にもその手本を貰いに来いと言われたけど。
 とうとう貰いに行かんかったです、そしてもうほんとに、合楽が真実願っておる事を願いとする、あの奏上文である、祝詞でなければいけないと思いましてから、合楽独特のネ、私の心を心とする様な祝詞文を作りなさいと言うて、光岡先生に昨日作らせました、そしてそれが、これは又啓上しなければいけませんかれども、大体ありませんけれども、合楽の願いを願いとしての所を、読んで貰います。これはだから、私が祈るのじゃない、私が願うのじゃない。
 合楽打って一丸となって、この事を願わなければならんから、大体祝詞を皆さんに公開すると言う様な事は本当は、不謹慎の事だとは思うんです。けれどもこれは教会長だけのものでは無い、合楽の者も親先生が読む、あの祝詞の通りの、御かげを頂かせて下さい、と言うて一緒に願わなければならない事だと思うから、あえて読ませて頂きます、ここんとこだけ「天地の創り給えしものの一つ、教祖様の御教え給える如く、人の生き抜くため必要な食物、五穀豊穣を神に祈ります。
 今年の秋作の上にも天地のお恵み深く、麗しく実り豊けく恵み幸え給え、諸々の家業に勤しみ、千草の道にかかなでて、各も各も身も勤めも大切に実意を込めて、いたつき励み慎ましく進め給え、身代と人間と繁盛の道を給え、世に現し給え、更にお願い申しあげます事は、これの、合楽教会に於いては、神も助かり、氏子も立ち行く、いさとしの間に間に、その実践の真を上げて、合楽を合楽示現、交流これ何ですか交流さながら、ここからあのう、最近の合楽を中に入れてある訳です。
 神の御諭しの間に間にそが実践の真を、実を上げ合楽示現交流さながら、波紋の広がる如く天下万民の苦悩を救い、この天地としてこの労をして安耀楽土たらしめる為、幾多茨の道を乗り越えて、真の合楽を現す時期到来の胎動を感ずる。信奉者一同ことごとく、不動めいじん、ただ世紀の神願成就の御用に御使い回し、頂かねばやまんとしてひた祈りにひた願い、真の和賀心時代顕現を顕現し。貧乏の無い世界病気の無い世界、争いの無い世界をしぶんし、更には現代の世相を見れば。
 幸福とは逆に全人類が不幸の、るつぼの中に落ちる寸前に有るが如き。その不安の根本を悟り、精神を立て直し幸福の原点に立ち返り、暗黒不如意の世界に一代光明の輪を広げんと、外の運動を展開しつつある事の様を、みそなわし給いて手をさしも、大御前にないき拝める人共はさらなり、遥かにおろがみまつりて、ある人々に至るまで、今日のみ祭りの神比礼、厚くかかふらしめ給え。
 信奉者諸々一筋に信心を進めて、真に真に生神の氏子とお取立て頂き、御神願成就の御役に立たしめ給うべく、神導き神引き立て給えと、かしこみかしこみ申すと、最後の所だけですけれども。でも今の合楽の言うなら合楽の願いと言う事、そう私共の願いそこで合楽示現と言う様な事は皆さんがもう、説明は言われない。只合楽教会と言うのがこれは極楽を経ての合楽である。それをあの現して行こうと言う様なこう言う様な風に、あの確信されて来た。だからみなさん銘々この祈り。
 私が例えば読み上げる、祝詞を皆さんもその通りであると、言う風にです実感しての祈り、祈願でなからなければならないと思います。どうぞ一つあの皆さん、自力を無くしたと言うのでも、もうポンと走って行こうとする人達もありますけれども、決してそうでは有りません。今まで以上の、言うならば信心に打ち込まして頂いてネ、今合楽に掛けられておる神様の願いを、一つ願いとして、それに邁進、挺身さして頂かなければならんと、言う風に思うて居るので御座います。
   どうぞ。